松野クララとは東京女子師範学校付属幼稚園の最初の主席保母
松野クララについて、イラスト付きで説明します。東京女子師範学校付属幼稚園の最初の主席保母さんだったんですね。
※保母とは・・・ 保育士の前の呼び方、1999年より保育士の言い方
松野クララとは、東京女子師範学校付属幼稚園の最初の主席保母
松野クララは、東京女子師範学校付属幼稚園の最初の主席保母さんです。
で、なんで名前がクララなの? クララが立ったの?
って話ですが、松野クララは、実はドイツ生まれのドイツ人!!
日本人と結婚したので、松野クララさんなのですよ~。当時では珍しいですよね。
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で、松野クララは、出身のドイツでフレーベルの学校で、幼児教育について勉強してたんです。
その時代、フレーベルが生きていて、ほんとうにフレーベルの学校に通学して学んだ人なのです。
主席保母も納得。と思いませんか??☆
東京女子師範学校付属幼稚園は、1876年、明治9年の日本で最初の幼稚園
この松野クララが初代主席保母を務めた、東京女子師範学校は、日本で最初の幼稚園です。
できた年は、1876年、明治9年です。
この時代の幼稚園は、裕福な人が通うものなので、庶民には広まっていません。
で、なぜ松野クララが初代主席保母を務めたのか、これは、東京女子師範学校の目的が深~く関わっています。
東京女子師範学校付属幼稚園の目的が幼児教育だからクララが適任
官立の東京女子師範学校付属幼稚園は、親がいない間の子どもを預かる。という目的ではなく、幼児教育が目的という教育の機関でした。
官立とは・・・ 国が作ったもの。(現在の国立にあたる。)
なので、東京女子師範学校は、幼児教育に詳しい方を主席保母になってほしい。
そこで、松野クララが主席保母になったことにより、東京女子師範学校には、恩物が取り入れられたんですね。
余談 恩物の取り入れ方が下手だった?!
これは私が学生時代に学習したことですが、
この松野クララは日本に、フレーベルの幼児教育を伝えたこと、恩物を日本で実践したことで、日本の明治時代の代表的な教育者と言えるんですが・・・
松野クララは、数年後、ドイツに帰国します。
で、クララが帰国してからの東京女子師範学校付属幼稚園での恩物の取り入れ方は、
学校の教室の机にみんなで座って、図工のテストのように一斉に恩物を扱う。
というものでした。
なんというか、自発性や、こどもたちの感受性に影響を与えられるような使い方が出来ていなかったんですね。
これを、のちに変えたのが、倉橋 惣三さんです。
この部分は、この記事に詳しく取り上げました。
www.utautaeveryday1.com
倉橋 惣三は、恩物主義よりも、児童中心主義をすすめることに成功しました。
さて、話がそれてしまいましたが、松野クララのポイントをまとめましょう。
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松野クララのポイントまとめ
ドイツに生まれ、フレーベルの幼児教育を直接学んだことで、日本にフレーベルの幼児教育を教えてくれた松野クララは、
明治時代の日本の幼児教育実践に大きな功績を残しました。
松野クララさんの最重要ポイントまとめました。
いつ・何のために・何した?コーナー |
松野クララさんは
いつ → 東京女子師範学校付属幼稚園ができた1876年(明治9年)
何のために → フレーベルの幼児教育を行うために最初の主席保母になった
何をした → フレーベルの幼児教育の実践、恩物の取り入れ、保母の教育も行った
今回の内容である松野クララは、保育原理と、教育原理で出題の可能性があります。
幼稚園関係だから、どちらかというと、教育原理かな?