コンドルセは公教育を求めたが失敗に終わったパイオニア
近代公教育のパイオニアと呼ばれるコンドルセは、公教育のための覚書を提出したものの、実現はできなかった人物です。わかりやすく説明します。
コンドルセの生涯と公教育の失敗
貴族による専制政治が、フランス革命によって市民の主権を得ようと戦乱で混乱する時代のフランス。
※専制政治 支配者による独断の政治。
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そんなのときのフランスに生まれたニコラ・ド・コンドルセ(1743~1794)は、1791年に、フランスの公教育をもとめる法案を議会に提出しました。
これは、コンドルセ自身がかつて書いた公教育に関する5つの覚書の本を参考に内容としたものでした。
かつ、フランスでは当時フランス革命によって、国民主権の内容を前提としたフランス憲法が制定されて、その中の内容にも、公教育制度を整えて、市民にも、教育を与える環境をつくることが、憲法にも含まれました。
なので、コンドルセの公教育のすすめは、本当は成功するはず。だったのです。
しかしながら、フランス革命(1799年までの10年)の影響で、コンドルセには逮捕状がだされ、
フランス革命の混乱の中で、コンドルセはその命を落とすことになります。
よって、コンドルセの公教育の目標は彼が亡くなったことによって、達成しえないものになってしまったのですが、
※パイオニア → 先駆者や開拓者という意味があります。
コンドルセが提出した公教育計画の内容
コンドルセが議会に提出した公教育計画の内容です。
・男女が共学であること
・無料であること
・政府が公教育の責任を負うこと
・市民にも、情勢や国政を学ぶ機会を与えることこそが、弾圧的でない、国民主権の国家には重要であること
・教育の機会が一生涯補償されるべきであること
男女共学も、無料で国家が責任をもつことも、一般の市民が政治の基礎を学習する機会をもつことも・・・
すべて、現在の教育の在り方にも共通しているとおもいませんか?
このようにコンドルセは、いまから約200年も前の時代に生まれながらも、普遍的で、人民の自由の保障にとって必要になる教育の在り方。が分かっていた人物なのです。
公教育のパイオニアと言われるのも、納得。ですね。
ただ、コンドルセが生まれた時代のフランスは、フランス革命や、差別による対立も大きい時代。
なかなか、公教育。というステージを設けることは困難でした。
結果的に、時代が彼を失ったことになります。
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