赤沢鍾美と新潟静修学校を漫画でまとめ。付設保育所はどんなところだった?
保育士試験対策として、今回の記事では、赤沢鍾美夫妻と新潟静修学校についてまとめました。
保育士試験では、保育原理の科目で出やすい内容ですね。
(事前と書いていますが、慈善の誤りです。自作の画像ですが元データの再作成をしませんので、こちらで文章にて訂正します。)
赤沢鍾美と新潟静修学校の保育士試験のポイント
赤沢鍾美が何をした人か、というと、
夫婦で、新潟静修学校付設託児所を始めた人です。
始めての民間の託児施設であり、日本の保育所のあるべき原型。ともいえます。
東京女子師範学校付属幼稚園は幼稚園でしたし、あそこは上流階級対象だったので、
子ども達の必要に迫られて始めたのは、新潟静修学校だったんですね。
というわけで、赤沢鍾美さんは
1890年に、新潟静修学校の付設託児所を始めた人物です。
保育士試験では、ここがポイントになります。
以下、内容を詳しく掘り下げました。
学校の生徒が兄弟の子守で勉強ができない。
新潟静修学校付設託児所、
新潟静修学校にくっつく感じでできたんです。
名前を見たら、そのままですが。
で、これって、親の子どもを預かる。とは、ちょっと違ったんですね。
小学校にくるべき年齢の子たちが、
親の仕事で、幼い兄弟の面倒を見るために通学できなくて、
学習機会がこどもたちに与えられない
だからこそ、赤沢鍾美夫妻は、学校の隅っこに、妹や、弟を預かるスペースを作って、
子ども達が、ちゃんと勉強ができるようにしたんです。
なので、最初は、民間の私塾のような立ち位置だったんですね。
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だから、結構、経営状態はギリギリで、託児の意味が大きかった。
隅っこで預かっていただけのはずだったのに、だんだんと要望は増え、
とうとう、新潟静修学校の付設託児所。
として、専用の場所を作ることになりました。
この時代の仕事っていったら、やっぱりあまりお金をもらえるようなものではなく、
親からお金を取れるような状況ではないので、経営はかなりギリギリです。
けど、このような、保育を必要としている子どもを守りにいったのが、赤沢鍾美なんですね。
生活を守る。子ども達が安全に過ごせる場所を提供する。
親も、兄弟も、面倒をみることができない時間の幼い子ども達に、
安全に過ごせる場所を提供する。
このことが、新潟静修学校付設託児所の目的でした。
だからこそ、新潟静修学校付設託児所は、地域や、親からも賛同の声があつまるようになります。
のちに、新潟静修学校付設託児所は、守孤扶独幼稚児保護会に改名しています。
(しゅこふどく)